この時期は中学や高校の同窓会なんかをやる時期だ。
私は久々に会った同級生から近況を聞き、仕事や人生に対するスタンスや考え方の違いを知ることで自分の生活に活かせるものを得られたらいいなと思って参加する。
まじめな話がしたい
数時間飲み会をすれば話の内容は多岐にわたる。少しはまじめな話をしたっていい。
まじめな話の定義は人によって違うと思うが
例えば今後のキャリアプランとか人生プラン、結婚についてどう考えているかとか
我々はあの頃より年を取り、経験を積み、様々な考えを持っているはずだ。
たまたまかもしれないが私の周りにはほとんどまじめな話をする人はいない。
頃合いを見てまじめな話を切り出そうとすれば
「まじめな話だなあ」
「お前の話は深いなあ」
もちろんスムーズに話を切り出せない自分にも非がある。ド田舎のヤンキーばかりの地方ではない。関東圏のベッドタウン、生徒数はかなり多かったはずだ。
その場を楽しみたい人たち
彼らは昔みたいなバカ話を望んでいる。
昔のやんちゃ話、当時イジられていた人を隙あらばイジりみんなで笑う。
仕事の話になれば今の現実から逃げるように同僚や上司の悪口。
同年代の人だけで集まれば人数が大人数であるほど話の内容は誰にでも分かり合えるものになっていく。
その場にいる多くの人が共有・共感できて場を盛り上げられる話。
こういう話をみんな求めているのだ。決まって同窓会は一過性の盛り上がりを見せ、昔の思い出に浸り、大げさに言えばひと時の夢のような時間を過ごし、解散すれば「明日仕事かよ!」と叫びながら現実世界へと戻っていく。
これではただの現実逃避ではないか?
同窓会とはそういうものなのだろうか?
そもそも飲み会に目的意識など持って臨んでいる自分の方がおかしいのは何となく分かる。大多数の人はただ、同期との久しぶりの再会を楽しみたいだけだ。
結局コミュニケーションは相手あってのもの
独りよがりの目的を持って望むのは間違っているのかもしれない。
その場の雰囲気、周りの人の性質、タイミングなど多くの要素が関わってくる。相手から自分の聞きたい話を自在に聞き出せるほどのコミュニケーション能力がない自分がいい話が聞けなかったからと言って同窓会に文句を言うのは畑違いだ。
まるで憧れの人に「いい話を聞かせてください」と聞きに行き、断られたからといって逆ギレしてる人のようだ。
コミュニケーションの基本である相手の話を聞くこと、自分から与えることなどを意識し続ければいつかはいい話を聞けるようになるかもね、くらいのスタンスでとりあえずその場を楽しむのが大事なんだろうな。