紫色のつぶやき

一人でも、金をかけずとも、人生は楽しい

運命と現実のはざまで「マチネの終わりに」

とんでもない小説に出会った。

運命とは自分で切り開いていくものだ、と青臭い若者のような考えを持った私にこの本は、運命に翻弄され最良の人生を選ぶことができなかった人生を生きる人間の美しさを教えてくれた物語だった。

 

マチネの終わりに

マチネの終わりに

 

 

 

クラシックギターの演奏者、蒔野聡史はパリの通信社で働くジャーナリスト、小峰洋子と運命的な恋をする。出会った当時蒔野は38歳、洋子は40歳だった。若い時の先のことを考える恋愛とは違い、様々な障壁が彼らの前に立ちはだかる。

アラフォーになってもこんなに情熱的な恋愛ができて羨ましい限りだが、ただそれだけでは終わらない彼らの物語は、人が何か大事な選択をするときに思い出す物語となるに違いない。

私が考えたことを書き残しておこうと思う。

 

ヴェニスに死す症候群」と自分探し。

洋子はジャーナリストとしてバグダッドなど危険な場所に赴いて取材をするようになる。そんな自分を「ヴェニスに死す症候群」だと言う。物語に出てくる造語だ。

 

“その定義は「中高年になって突然、現実社会への適応に嫌気がさして、本来の自分へと立ち返るべく、破滅的な行動に出ること」”

 

よく、自分探しの旅に出る若者がいるが、ヴェニスに死す症候群になった人々はまさに、40歳という一つの節目を迎えた人間の第二の自分探しなのだろうか。一つ違うものがあるとすれば、破滅的な行動に出ることだ。

 

大人になって変わる恋愛、大人になっても変わらない恋愛

 

洋子にはリチャードというフィアンセがいる。彼らのそんな洋子に蒔野はまだ数回しか会って話をしていない洋子に「離婚してほしい」とお願いする。そんなお願いを簡単にしてしまうのは大人で自分が洋子を幸せにできる経済的余裕があるからだろうか。

ちゃっかり洋子もリチャードとの婚約をいったん保留にする。洋子も40歳で子供を産むためのタイムリミットが近づいていた。

 

一方でこれは中学生の恋愛かと思えるような場面も随所に見られる。

彼女の連絡を待ちわびる蒔野の姿はまるで中学生のようだ。

一方の洋子だって蒔野の名前をインターネットで検索したり、蒔野からのメールを読んで、「彼らしい表現の仕方だな」とか考えたりしている。

この、彼らしい表現の仕方、というのは後に物語の重要なカギを握る。

 

過去は変えられる

この物語は二人が出会ってから5年半もの月日を描いた物語である。

物語の冒頭で蒔野は洋子との会話の中で、過去は変えられると言った。

最初に話題に出た時には音楽に例えて、のちにこの言葉は洋子の幼少期の話や物語の5年半もの歳月に及ぶ過去を変えることになる。

 

私たちの現実の物語に例えるとするならば、自分が子供のころは父親がなぜこんなにも厳しいのか理解できず、父親のことを好きになれずにいたが、いざ自分が子供を持つ年齢になったときに、よい人間になってほしいという父親なりの愛情だったのだと気づき、父親のことを好きになる、といったところだろうか。

 

もっと深堀すれば、今私は社会人生活にもだいぶ慣れてきて、このようにブログを書く時間も持つことができるようになってきたが、この生活をあと10年ちょっと続ければ瞬く間に40歳だ。

そのころになると今ブログを書いているこの時間は過去になる。

現在このブログを書いている事柄を10年後に読んでみると10年間の蓄積とこの文章を重ね合わせて読み、まったく違った感じ方をするかもしれない、すなわちそれが蒔野の言う「過去を変える」ことになるはずだ。美しく歳を重ねていける人間でありたい。

 

記事の終わりに

洋子の父ソリッチと洋子の会話に印象深い会話がある。

 

 

「自由意志というのは未来に対してはなくてはならない希望だ。自分には、何かができるはずだと、人間は信じる必要がある。そうだね?しかし洋子、だからこそ、過去に対しては悔恨となる。何かできたはずではなかったか、と。運命論の方が、慰めになることもある。」

「そうね。よくわかる、その話は。現在はだから、過去と未来との矛盾そのものね。」

 

 

なんのしがらみもない今の時代にやりたいことをやって生きている人間はたくさんいる。だからこそ、やりたいことも見つからずになんとなく生きている人間は過去を振り返って後悔する場面もあるかもしれない。そんな時、運命論が私を味方して未来に希望を見出すことができるかもしれない。