紫色のつぶやき

どうせそんな悩みは1年後にはどうでもよくなってる

朝井リョウ「正欲」 不幸に逃げない

 
 
「正欲」、読みました。本の帯には「読む前の自分には戻れない」と書いてある。
私も読む前には戻れない気がする。

 

正欲

正欲

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スクールカースト、意識高い系就活、など社会に深く渦巻きながらもみんなが目を背けてしまうような問題に果敢に切り込んでいく朝井リョウさんは本当にすごい作家だ。
 
テーマは何だろう?「多様性」とか「マイノリティ」がテーマなのだろうか。そうやって大きな括りでまとめようとすること自体がこの本の趣旨に合っていないような気がする。
感想をまとめてみよう。
 

通常のルート

私たちが生きている社会は通常の欲望を持った人間が通常の生活を営むことを前提に回っている。
それはみんなが食欲、睡眠欲、性欲を当たり前に持っていて、多くの人が学校に行って進学して、就職して、結婚して、子供を産んで、家を建てて、となる社会だ。
 
「異性の性器に性的な関心があるのは、どうして有り得ることなんですか」
*「正欲」より
 
多様性という言葉はすっかり私たちの社会に浸透した。この本にLGBTQは出てはこないが大きな対比対象として出てくる。
それはマイノリティのマジョリティとしてだ。
 
この本が焦点を当てているのは
・マジョリティのマイノリティ
・マイノリティのマイノリティ
の2つだと思っている。
このルートに入ると結構肩身の狭い思いをすることが多いなと思う。
 
私自身はそういった人たちを理解しようとしない。
なにか私にやってほしいことがあったり私の言動が明らかに間違っているなどあれば対話はしたいと思うが、基本的には分かり合えないと思っているからだ。
だから自分のことを差別主義者なんて思ったりもしている。
無自覚な差別をするくらいなら最初から理解を放棄したほうが楽だから。
 
私は通常のルートから最近外れたなあと感じる。
いい大学に入っていい企業に入る、そこまでは通常、むしろ優秀なルートだったと思うが結婚、子育て、マイホームなどはなさそうだ(これからのことなんで分からないが)。
 
そういった視点でこの小説を読んでいたので自分がどこに属しているのか、カテゴライズせずにはいられなかった。
 

世間に応援される傷

人に弱みを見せるのはもろ刃の剱だ。
弱みを見せて共感してくれ、具体的な解決案が生まれることもあるかもしれない。
しかしそれを言いふらされて自分の立場がさらに悪くなることだってある。
 
「話したって無駄」
「拒絶はしないから」
「もうほっといてくれよ」
「そうやって不幸に逃げないで」
 
本書の中でそういったやり取りが何回かされる。
本当の多様性は我々の理解を超えた範疇にある。そういった直感的には理解できないことを理解できないままにしておくこと、それこそが多様性なんじゃないかなと最近よく思う。
 
私も他人に弱みを晒そうとしたことがあるが内容が重すぎて聞く側が受け止めきれず、「そんなに真剣に悩むなよ」と軽い話にされたこともある。
 
「お前らみたいな、世間に応援されるってわかってて傷晒してる奴見ると、そのかさぶたにナイフでも突き立ててやりたくなる」
*「正欲」より
 
そんなに簡単にこの本を分かった気になってはいけない。いつまでたっても分からない、いくら考えても分からない。
「多様性」の数だけこの本の解釈の仕方があるから。
 
私の好きな言葉に「あなたにはあなたの地獄があり、私には私の地獄がある」という言葉がある。
 
 
本当の悩みなんて人には言えないし、言ったところで分かってはもらえない。
分かり合えないことは分かっている。それでも対話することは必要なのか。
本書ではその分かり合えないとしても理解しようとするプロセスを「繋がり」とも呼んだ。
つながる対象は仕事、家族、趣味、それとも性的思考、なんでもいいのかもしれない。
どんなに世間に理解されない繋がりでも著者の言う「生きることを選ぶきっかけになり得る」繋がり、その繋がりに助けられた人はこの本の中にも現実世界にも多くいるのかもしれない。
 

不幸に逃げない

これが大切だと感じた。
「どうせ自分には無理」と選択肢を狭めてあたかも最初から選べなかった人生だと解釈するのは楽だ。
 
「そうやって不幸でいる方が、楽なんだよ」
*「正欲」より
 
自ら選択肢を狭めて挑戦することを止めれば目標に届かなかったときのショックを受けることもないし、人に嘲笑われて傷つくこともない。
ありきたりな言葉だが自らが選んだ道を正解、不正解。正しい、正しくない、と自分でジャッジし、他人にジャッジされるのを不安がって物事が何も前に進まないよりは、安全地帯を飛び出して何かを始めたほうがいい。
 
 
  • 八重子が自らのひがみだと言われることを分かっていながらミスコンの廃止を訴えたように
  • 泰希がYoutubeの配信を始めたように
  • 夏月が自分で動画を撮影したように
  • 大也がパーティーに参加したように
 
彼らが起こした行動はいい方向にも悪い方向にも転んだが自らの不幸の物語の続きを描いたことは確かだ。
どんなにどん底にいる人間も卑屈になることに飽きることがある、その時にいい繋がりに出会えるかどうかが大事だ。
 
そんな繋がりを少しでも増やそうと行動するためにも不幸に逃げてはいけない。
卑屈になることに飽きる気持ちを持ちながら生きていきたい。
 

さいごに

私はハッピーエンドが嫌いだ。
昔の小説、映画、ドラマの多くは皆ハッピーエンドで終わるのでちっとも響かない。
 
未だにそういった話をすると引かれることも多いが人に話せるような悩みの時点で私の悩みは大した悩みではないのかもしれない。
 
でも現実社会はハッピーエンドで終わる人生ばかりじゃない。紆余曲折を経てハッピーエンドで終わる人が多いのかもしれないけれども、ずっとハッピーな人もいればずっと不幸な人もいる。
最近はそういったハッピーエンドで終わらない物語も増えてきたので非常におもしろい。
この本がハッピーエンドで終わるか、バッドエンドで終わるかと言えばたいていの人はバッドエンドと答えるだろうが、私は思ったよりはバッドではなかったと思う。
読み終わった直後にブログに残したくなるような楽しいとか面白いとかを超えたものがありましたね。